夏。それは水の季節。これは、3人が旅立つ少し前のある夏のお話――

「イヤリング」



 ムラの無い濃い青色の高い空には、純白に膨れる入道雲。太陽は力強く輝き、村をじりじりと照らしていた。

「よーっし、今日は負けねぇからな」

 川の傍で大きくぐぐっと伸びをしながら、ル・ディアは隣に立つ宿敵に宣言した。
 宿敵――もとい、ティ・ライは、へっ、と勝気に笑って答える。

「俺だって負ける気はさらさらないね。……なぁ」
「あん?」
「いつも通りじゃ面白くねぇ。今日は橋からスタートにしようぜ。流れに逆らって泳ぐんだ」

 夏の光に碧眼とシルバーブルーの髪をきらきらと輝かせ、ティ・ライはそう提案した。ル・ディアは握った拳を持ち上げてみせ、

「乗った! 後でその提案、後悔させてやっからな!」

 言って、村の入口に架かる橋へと駆け出した。

「あっ、待て!」

 叫び、ティ・ライも走り出す。サンダルが乾いた土を蹴り、夏の熱気を砂埃に霞ませる。少し距離を詰めたところで、前を走っていたル・ディアが急ブレーキをかけた。
 そこは粉引き小屋の前だった。彼女はその扉をばたんと乱暴に開け放ち、両手を口の横に当てて中に怒鳴った。

「おーいっ、ハヤテっ! 出て来ーいっ! 審判ーっ!!」

 幼馴染の少年に、いつものように競泳の審判をやらせようというのだ。生真面目な性格の彼がいちばんの審判だ、とライバル同士の意見は一致していた。
 ほどなくして、頭巾を被ったクラヴァットの少年が小屋から出てきた。父親の仕事を手伝っていたのだろうか、袖口が粉で白くなっている。
 彼はぱたぱたと袖をはたきながら、少し困ったような静かな声で問うた。

「……また、競泳?」
「おうよ、頼む」

 ル・ディアの後ろから顔を出し、ティ・ライは付け加えた。

「今回は橋がスタートだ。お前は俺たちが飛び込んだのを見たら、いつもスタートにしてるあそこまで行ってくれ」
「ダッシュでな!」

 ハヤテは一瞬もの言いたげな表情を見せたが、すぐに頷いた。

「……はい」
「よっしゃ決定! ライ、橋まで競走だ!」

 ル・ディアが”競走”と言うと同時に、セルキー2人は全速力で走り出した。砂が蹴り上げられ、もうもうと砂埃が舞う。

「う、けほっ、……ちょっ、待って下さいよ!」

 ひとり取り残され、砂煙にむせながらハヤテは慌てて駆け出した。



「はぁっ、はぁっ……げほっ……」

 ハヤテが2人より大分遅れて橋の上に来たとき、ル・ディアとティ・ライはすでにいつでも飛び込める体勢に入っていた。

「遅いっ! なまっちまうじゃねぇか!」

 振り返り、ル・ディアが怒鳴る。ハヤテは苦しい息を無理矢理に整え、2人の後ろに立った。

「ご、ごめっ……けほっ、げほっ……!」

 謝ろうとしてまた咳き込んでしまう。元々全力で走るのは苦手なのだ。まだ胸はばくばくと激しく打っているし、頭もがんがんする。身体が火照って熱い。
 そんな彼をちら、と見、ティ・ライはル・ディアに向かってからかうような口調で声をかけた。

「ほらほら、そう責めてやんなよ。ハヤテは突っ走れない身体なんだからさ」
「別に本気で責めちゃいねぇよ。……さっ、いつも通りだ。3つ数えるよ!」

 その声で2人とも前を向く。ル・ディアとティ・ライの口が同時に動いた。

「3……2……1……!」

 ゼロ、と同時に叫び、同時に橋を蹴る。2人のしなやかな体が美しい弧を描き、川面を鋭く切り裂く。飛沫が上がり、煌きながら飛び散ってセルキーたちの真上の水に降り注いだ。
 ハヤテはそれを見届け、いつもの川岸へと走り出した。
 空は、曇り始めていた。


 流れに逆らいながら、2人は泳いだ。決して押し流されはしない。むしろ流れの方を押し流す勢いで力強く水を掻き分け、蹴り続ける。
 ぐんぐんと近づいてくる、今はもう使われていない漁師小屋。ゴールは近い。
 疲れを感じ始めた四肢にぐんと力を込め、2人は泳いだ。速く、強く、魚のように。

 ざばりと立ち上がり、同時に怒鳴る。

「審判! ――どっちだ!?」
「…………同着、です」

 らんらんと目を輝かせる2人に、審判は静かに告げた。その言葉に、2人がふぅ、と息をつく。

「ちぇっ、同時かい。まぁいいや、次は勝つかんな!」

 元気良く言ったル・ディアに、ティ・ライは一瞬ためらった後で言った。

「あ、あぁ……なぁ、お前…………イヤリング、どうしたんだよ? ほら、左のさ……」
「え? ……あ! 畜生、なんかおかしいと思ったら! ……どっかで落としちまったなぁ、こりゃ……」

 左耳をぐにぐにと触り、ル・ディアは叫んだ。彼女がいつも両耳につけている「6」の字に似た形のイヤリングが、左側だけなくなっている。

「しゃーねぇな、クソ……」

 川のどこかに落ちているはずのそれを探そうとル・ディアが一歩踏み出したとき。
 空を雲が多い尽くし、一気に雨が降り出した。ざーざーと音を立てる雨粒が、びしびしと川面を叩く。
 最悪のタイミングでやって来た夕立に舌打ちし、ル・ディアは悔しそうに言った。

「ちぇーだっ、ついてねぇ……帰ろう」
「…………」



 夕立はやって来るのも去っていくのも早い。激しい雨が止んだのを見た瞬間、ハヤテは家を飛び出した。

「おい、ハヤテ!?」

 兄の呼ぶ声も耳に入らない。ぬかるむ道を駆け抜け、そのままざぶんと川へ踏み込むと、水の増した重い流れに押し流されそうになる。
 足元に注意を払いながら、彼は荒れた水面の底に目を凝らした。


 ぼんやりと雨上がりの道を眺めていると、走っていく幼馴染が見えた。2階から見下ろしていたために顔は良く見えなかったが、とても急いでいるように見える。
 なにを必死に――

(! ……あいつ…………!)

 ひとつの可能性が脳裏を駆け抜ける。ル・ディアは窓から屋根に飛び出し、裏の家の屋根に飛び移る。そのまま身を乗り出し、窓をどんどんと叩いて怒鳴った。

「ライ! ラーイっ!!」
「……何だよ?」

 窓から顔を出し、屋根によじ登りながらティ・ライが問う。昼寝でもしていたのか、声も表情も眠そうだ。

「ハヤテが今川へ走ってった……なぁ、あいつ……」

 ル・ディアのその言葉で、ティ・ライの顔から眠気が消し飛んだ。
 瞳を開き、唇を震わせて彼は恐る恐るといった調子で口を開く。

「おい、川だって……まさか、あいつ……!」
「……多分」

 意味も無く斜め下に目をやり、頷くル・ディア。右のイヤリングが、鈍い金色の光をちらりと見せた。

「なっ……バカか!? 夕立の後だぞ、川なんか危ねぇ!」
「あいつ、分かってやってるに決まってるさ! ……追いかけよう、あいつ、確か……!」

 屋根から飛び降り、2人は川へと走り出した。つい先ほどまで砂を蹴り上げていたサンダルが泥を蹴り、4本のすらりとした足にいくつもの斑模様をつけた。
 斑は水を含んだ軟らかいものを踏む音と共に増えていく。ひとつ、ふたつ、みっつ……



「――おい! ハヤテっ!」

 漁師小屋の横に立ち、ティ・ライは叫んだ。ハヤテはその声に振り返ったが、すぐに水底へと視線を戻す。
 ぐっと表情を歪め、裏返りそうな声で更に叫ぶ。

「おいバカ、戻ってこい! 今の川は危ねぇって分かってんだろが!」

 聞こえていないかのように、彼は捜しつづけた。すでに彼の肩の辺りまでが水に浸かっている。その細い身体は今にも流れに負けてしまいそうだ。

「……!」

 川に踏み入ろうとしたティ・ライの肩を、ル・ディアは掴んで引き寄せた。


 水底にきらりと金色のものが光った。目一杯手を伸ばし、掴み取る。特徴的なその形は、紛れもなくル・ディアのイヤリングだった。
 ふぅ、と息をつき、上流へ歩き出そうとした瞬間。

 流れに足をすくわれた。

 身体が水に呑み込まれる。手足は流れの速さに負け、ただむなしくもがくばかり。

「がぼッ……!」

 まともに水を飲んでしまう。息を継ぐことができず、頭が締め付けられる感覚に襲われる。
 苦しい。
 このまま溺れ死ぬのかな、などと考えながら、それでもハヤテはイヤリングをしっかりと握り締めていた。


 安堵の表情でこちらを振り返ったハヤテの頭が、次の瞬間水の中に掻き消えた。
 ひく、と息を飲み、ル・ディアは恐る恐る口を開く。……頼む、俺の想像通りの答えだけは言わないでくれ。

「なぁ、ライ……あいつ…………泳げたっけ?」
「……いや……残念ながら、泳いでるとこ見たことねぇぞ…………?」

 願いはむなしく押し流された。願いと一緒に彼まで押し流されてしまう気がして――
 右のイヤリングを外し、ティ・ライに押し付ける。何も考えずに、ル・ディアは荒れ狂う流れに飛び込んでいた。

 流れに乗って下流へと急ぐ。速く、もっと速く! 高ぶる気持ちに任せ、ル・ディアは泳いだ。

「ハヤテっ!」

 彼の名を呼び、浮き沈みしているその細い手を掴んでこちらに引き寄せる。心なしか、その手に力が無い。
 嫌な予感を振り払うように頭を振り、ル・ディアは口を開いた。大丈夫、まだ生きてる……ちゃんと意識がある……。

「しがみつかなくていいよ。軽く掴まって……」

 安心させるように言い、ハヤテを背に負うような形で上流を目指す。しかし、今のこの川は夕立で流れを増している。おまけに泳げないハヤテを捕まえていなければならないのだ。全力で泳いでいるのだが、身体が言うことを聞かない。何度も何度も流されかけ、ル・ディアは心の奥で毒づいた。

(畜生、勝手が違いすぎる……!)

「おい、何やってる!」

 ――上流で怒鳴ったのは、兄のガン・ヌだった。その隣にはハヤテの兄も見える。
 ガン・ヌは素早く川に飛び込み、あっという間にル・ディアのところまでやって来た。

「バカ、何してんだ! ……説教は後回しだ、お前はひとりで戻れ」
「ひとりって、兄貴!」
「ハヤテは俺に任せろ、お前じゃ無理だ!」

 言うが早いが、ガン・ヌはかっさらうようにル・ディアからハヤテをひったくって泳ぎだす。彼の身体は確実に上流へと戻っていた。
 ル・ディアは歯を食いしばると、ばしゃんと大きく流れを蹴った。
 ――しかし、たっぷりと水を含んだ服が纏わりついて上手く動けない。いつの間にか擦り剥いたらしい膝がひりひりと痛い。

(く、くそっ……!)

 沈みかけ、歯を食い縛ったその時。
 兄の大きな手が確かにル・ディアの身体を捕まえた。



 短く切った髪からボタボタと大粒の雫が滴る。岸に上がると、ティ・ライが待っていた。ハヤテの方は兄であるラムゼイの腕に抱えられてぐったりしている。が、右の拳はぎゅっと握ったままだ。

「……ハヤテ…………」
「ねこのめ、どういう事だ?」

 口を開きかけたル・ディアに、ガン・ヌが厳しい声で問う。
 ル・ディアは泣きそうになるのをこらえ、小さくなりながら答えた。

「ご、ごめん……俺、……ハヤテが…………見てらんなかったんだ。このまま流されちまうんじゃないかってふと思って、……それで」
「……やれやれ、事情聴取の順番を間違ったみたいだな。ラムゼイ、ちょっと弟借りるぜ」

 言ってハヤテをひょいと抱え上げ、ガン・ヌはかがみ込んだ。彼の腹の下に膝を入れ、ひと呼吸置いてどん、と強く背中を叩く。

「うっ、げほっ……!」

 呻き声と共に水が吐き出される。ラムゼイが駆け寄るより早く、ガン・ヌは少年の背中をさすっていた。彼の苦しげな息が静かになるのを待って、顔をこちらに向けさせる。

「うぅっ……ガン・ヌ、さん……? どうして……ここ……」
「ラムゼイだよ。何だか知らないがハヤテが飛び出してった、何があったか知らないかってな。川から帰ってきたねこのめのイヤリングが片方なくなってたから、それだと思った。……で? 何か言うことは?」
「……すみません…………僕、ねこのめの大切なイヤリングが流されたらどうしよう、って……でも……ちょっと考えれば分かったんですよね……無茶だって。……ごめんなさい」

 しゅんとなったハヤテの顔は、本当に悲しそうだ。今にも泣き出しそうに見える。
 それを見て、ル・ディアも珍しくうなだれながら謝った。

「いや、さ……元はと言やぁ俺が悪いんだ。イヤリングを止めなおすか取るかしてりゃあ良かった……ホント、ごめん。あんたを溺らせちまったりして……」

 ふうぅっ、と大きくため息をつき、ガン・ヌはル・ディアに厳しい目を向けた。

「イヤリングはこの際問題じゃねぇ。お前、謝る場所を間違ってるぞ。問題なのは、この川に飛び込んだことだ」

 そこで少し腹に力を入れ、呼吸を整えてガン・ヌは怒鳴った。

「何やってんだお前は! 少しは後先考えて行動しろ! お前、増水した川を登るなんて出来るわけねぇだろ! たとえ荷物を抱えてなくても、だ!」
「ご、ごめん……」

 ル・ディアの弱々しい声を聞き、ガン・ヌに抱えられたままのハヤテが訴えるような目を向ける。
 それをじっと見つめ、ガン・ヌは厳しい語調を崩さずに彼に言った。

「ハヤテ、お前もだ! お前ならこんな事分かったはずだろう! 荒れた川に泳げないお前ひとりで入ったりしやがって! ラムゼイが俺のところに来たからいいようなものの、そうじゃなかったらお前死んでたぞ! うちのバカ妹ともどもな!!」

 ガン・ヌの目は真剣だ。真剣に怒っている。ハヤテは鼻の奥がつんとするのを感じながら答えた。

「はい……ごめん、なさい……僕、……うぅっ、僕……!」

 言おうとした言葉は、涙に流された。叱られて当然のことをした自分が情けない。許せない。そんな思いが涙の奔流となって、彼の言葉を詰まらせた。
 ガン・ヌはしゃくりあげるハヤテをそっと立たせ、その背中をラムゼイに向けて優しく押した。

「泣くなよ……俺も怒鳴って悪かったよ。ほら、帰って早く着替えな。風邪引くぞ」

 涙を右手で拭い、ハヤテは頷いて――思い出したように、その拳を差し出した。

「……ねこのめ、これ…………」

 ル・ディアはそれを両手で受け取り、そっと開いた。
 はぁ、とため息をついて呟くように言う。

「……サンキュな。……ごめん」

 受け取った左、ティ・ライに押し付けていた右と順番にイヤリングを付け直しながら、決まり悪そうに彼女はそっぽを向いた。
 いいんだよ、とハヤテが泣き顔で無理に笑う。その表情になにか大きく安心し、ル・ディアは苦笑した。

「帰ろう。いつまでもこんなぐしょぐしょじゃ居られねぇ」
「うん……兄さん、あの…………」

 見上げるハヤテの頭に、ラムゼイはぽんと手を置いた。

「……心配したんだからな」



 3人が去った後、ティ・ライはしばらくもぐもぐと言いづらそうにやっていたが、意を決したように歩き出しかけたガン・ヌに声をかけた。

「あの、さ、……ガン・ヌさん。……俺が、言い出したんだ。夕立の前、流れに逆らって泳ごうって。……普通にやってりゃ、イヤリング……取れなかったかな?」

 ガン・ヌは振り返り、ティ・ライに問うた。

「叱って欲しいのか?」
「いや、その……俺は…………」

 そんな彼に苦笑し、ガン・ヌは軽くそのボサボサ頭をはたいた。

「このバカ、もうちょっと後先考えろ」
おしまい




あとがき

セルキーズとはー兄さんの過去話。ハヤテ15歳くらいかなー?
CCのハヤテは泳げません。水辺は好きだけれど、兄さんが泳がせてくれなかったお陰で今でも泳げません(苦笑
ガン・ヌ兄ちゃんが何気に活躍してます。他所の子でもビシッと叱れる毅然とした大人はいいですね。
そしてライ君、影薄いなぁ……PSO学で言うとわりとちー坊タイプなんで、その気になれば主役も張れるはずなんだけど。
ここまで読んでくださってありがとうございました。

文章置き場へ戻る
inserted by FC2 system