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トスカが帰ってきたときには、夜の帳が町を支配してから既に3時間が経っていた。 疲れた顔でソファに身体を沈め、彼女は大きく息をついた。 「……お疲れ」 「そうよ、もう疲れたのなんのって。散々同じ話させられた挙句、明日本部に顔出せだって。ホント、毎度ながらお役所には呆れるわ」 声をかけたリエルの方を向きもせずに一気に言い、彼女はまたため息をつく。 そこでココアのマグをそっと差し出した姉の手に手だけで礼を述べ、さらにため息。 「……そういう訳なんで、明日は朝一で出かけっから……あ、そうだ」 トスカがふと思いついたように顔を上げる。いつの間にか空になっていたマグを置き、空いた右手を軽く持ち上げて彼女は続ける。 「旅の途中なんでしょ? 折角だからネイルスシティまで連れてったげるわよ。買い出しとか必要っしょ?」 「あ、ああ……なら、厚意に甘えることにするか」 「異議なしっ!」 言ってから確認を取るように振り返ったアレグロに、エイルがいち早く右手を大きく振り上げて返事をする。 よほど楽しみなのだろう、紺碧の瞳の奥が光を放っている。 「ネイルス――首都まではこっから馬車で2時間くらいはかかるから。あたしはあたしの都合で動くし、明日は早いわよ?」 「了解」 「はす向かいの宿屋、取っといたからさ。今日はそっちに泊まるといいわ。明日はこっちから迎えに行くから」 「……なんか、悪いなぁ。何から何まで」 そんな彼女の手際のよさに感服したように言い、リエルは自分のマグを傾けた。コーヒーの最後のひと口を転がすようにして喉に流し込み、彼は立ち上がる。 それが合図であったかのように、他の面々もそれぞれが立ち上がり、荷物を背負い直した。 ☆ ★ ☆ 『あの子と仲良くしてあげて下さいね。私なんかより、ずっと器用で頭も良い子だから……』 「……」 枕を抱えたまま、エイルは悶々と眠れずに居た。先ほど玄関まで見送りに来たトスカの姉――ティカの言葉が頭の奥にこびり付いてどうしても離れない。 違和感、とはこういうもののことを言うのだろうなと思う。彼女の言葉は、何故か音声から意味が浮いてずれてしまっているように感じられて仕方が無い。 他の仲間たちは皆既に眠っているらしい。いつもなら自分が真っ先に夢の世界に旅立っているというのに、何故だろう。 ふと起き上がり、彼は窓を開け放った。その向こうには、雲ひとつ無い満天の星空が広がっている。 「――エミト スギン セモク イ ツノド ペーレス ドナ――」 ごく自然に唇が旋律を紡ぐ。歌ってから、それが以前真夜中にファレンツァが独り歌っていたものだと気付く。切なく物悲しい夜の歌。あの時彼は何を想ってこの歌を奏でたのだろうか? しばらく夜の風を独り占めにする感覚を味わい、エイルはゆっくりと窓を閉めた。ガラスの光が上弦の月の光に重なり、けぶらせる。 ベッドに潜り込み、窓と同じにゆっくりと瞼を閉じる。程なくして睡魔の腕が彼の身体を抱き寄せに来た。 「……」 眠りに落ちる瞬間、歌声を聞いた気がした。ファレンツァのものではない、透き通った女性の声だった。 ☆ ★ ☆ 空が最も青い町、とはよく言ったものだ。世界中のどこに行っても濁っている筈の空だが、何故だかネイルスの空はその濁りさえも青みを帯びて見える。 加えて遠く道の向こうに見える海は空の雫を集めたかのように濃く、しかし澄んだ群青色の直線を白煉瓦の町並みの間に引いている。 アディータの首都、中央都市ネイルス。乗り合い馬車から降りた瞬間、一行は喧騒と青と白とに迎えられたのだ。 「じゃあ、あたしは協会に行かなきゃだから。あんたらも好きに見て回るといいわ」 「りょーかいっ!」 そんじゃ楽しみなさいな、と言い残し、トスカは風のように去っていった。 馬車に揺られながら全員で決めた約束を改めて思い出す。 「――じゃあ、今日は一日自由行動。但し! くれぐれも馬鹿な真似はするなよ」 ”くれぐれも”の辺りに特に力を込め、アレグロはそう言った。視線の先に居るのは勿論”アホ歌歌い”ただひとりだ。 「オッケー。その後はどうしようか? ネイルスに暫く滞在する?」 「そっか、あんたたちは何もラロスに帰る必要ないもんね」 リエルの言葉に納得したように手を叩き、トスカが呟く。彼女はすぐに顔を上げ、再び口を開いた。 「まぁ、どっちにせよ集合場所は決めないとね。お勧めの場所、教えよっか?」 「泉の広場の時計台下に、四時」 エイルの呟きは、どうやらアレグロの耳に届いていたようだ。彼はそれでいい、と言う様に頷くと、トスカから受け取ったネイルスの地図を手早く開いた。武具店でも探しているのだろう。 大変だなぁ、と呑気に考えるエイルの手首を掴む小さな手があった。アルティアだ。 「ん? どうかしたー?」 「うん……あ、あのさぁ……その、大丈夫……かな?」 「何が? 平気だよ、ボクって方向感覚いいしさぁ」 違うよ、と首を横に振り、彼はアディータの海と同じ色の瞳を銀髪の青年に向けた。 「ディア、さん……酷い顔色だからさ」 見れば、確かに酷い顔色だ。元から色の薄い若者ではあるが、その顔は色白を通り越して蒼白と化している。更に彼の瞳が揺れていること、額にうっすらと汗が浮かんでいることもエイルの目にはしっかりと見えた。 一瞬馬車に酔ったのかと考えたが、馬車の中ではそんな素振りは見せていなかった。強いて言うなら、いつも以上に無口になっていた程度だろうか。 「心配?」 「え……? 何言ってんのさ、当たり前じゃない」 「……そっか」 そう言えば、何とか仲良くなろうとしてたっけ、と半刻ほど前までのことを思い出す。同じ魔道士として親近感を抱いたのだろう、あの人見知りにしては頑張って色々とディアに話しかけていたのだった。 ……最も相手はアルティアに輪をかけて人見知りだった為、まともな言葉のキャッチボールは殆ど成立していなかったのだが。 そうこうしているうち、暫定リーダー――本人がどう思っているかは知らないが、少なくとも他のメンバーはそう認識している――も彼の異変に気付いたらしい。早足で歩み寄り、どうした、とかそんなことを尋ねている。 「おい、大丈夫か? どこか調子でも……」 ディアは答えない。ただ俯き、自分を抱くようにしてガタガタと震えている。 熱でもあるのか。そう思って彼の額に差し伸べた手は、リエルのしなやかな手に遮られた。 怪訝な顔をするアレグロにほんの僅かに苦笑の混じった顔を向け、リエルは静かに囁く。 「ごめん……ちょっと、ね。適当に宿屋でも探して休んでるからさ、気にしないでよ」 「そう……なのか? だが……」 「本当、ちょっと休めばすぐ良くなるからさ。とりあえず、そっとしといて貰えるかな」 「……分かった」 静かだが決して折れそうに無い柳の枝のような言葉の流れに、アレグロは引き下がらざるを得なかった。主従ふたりの背中を見送り、彼は畳んだ地図を再び開く。 後ろからそれを覗き込みに来たクレハに地図を肩越しに渡し、彼は振り返った。 「行くか?」 「ああ」 ひと言ずつの会話だけを交わし、ふたりは雑踏に紛れて消えた。 ☆ ★ ☆ 白と青に愛されたネイルスは外殻だけだったのか、とエイルは周囲を見回した。隣ではアルティアが同じように――但し、幾分不安げに――色のざわめきを両の瞳に映して瞬いている。 アディータの街には必ずひとつあるという市場の中で最も名の知れた場所、中央都市市場の色をひと言で表すのは不可能だろう。 石畳の眩しい白。空の薄く濁った青。屋台の少し色あせた屋根。積まれた果物の鮮やかな赤、緑、黄色。異国の玩具は鈍色の肌に安っぽい絵の具で着飾っている。 道行く人の浅黒い肌。色白、あるいは褐色なのは自分たちと同じ旅人だろうか? 褐色の肌に黒髪、そしてその腰に剣を下げた男性がエイルの右を足早に過ぎていった。 先ほど露店で買った砂糖菓子を口に運びながら彼は喧騒にも耳を傾ける。それは街と同じ色を帯びているような気がした。 薄桃色の蝶が口の中であっという間に溶ける。蝶は目に見える砂糖から不可視の甘味に姿を変えて飛び回る。 と、カラフルな人混みに色の無い一点があった。それを目ざとく見つけ、エイルは蝶の余韻を一気に飲み下す。 闇色の髪、闇色の服。太陽の羽根こそ市場の色に紛れているが、彼が全身に纏った闇はやはり周囲から完全に浮き上がって見える。初夏だというのに、彼の長い髪は北風になびいているようだ。 「レン!」 エイルの呼びかけに彼が気付く様子は無い。人の波に流されるように、彼は背筋を伸ばしてまっすぐ歩いていく。 アルティアの手を引っ張って追いかけるが、ファレンツァの歩みは段々と早くなっていく。そして彼は大通りを左手に曲がり、エイルの視界から消えた。 「レンってば!」 怒鳴り、エイルは走り出す。人の肩や胴体の間を難なく潜り抜け、同じ路地に飛び込んだ。途端、次の曲がり角に消える詩人の影。 こうなったら、とことん追いかけてやる。 「待てえーっ! 追いかけっこなら負けないかんね!」 今や完全に引き摺られる形になっている弟分のことなどお構い無しに更に速度を上げる。距離は随分縮まっている筈だ―― が、その追いかけっこはあっけなく終わった。角の向こうは袋小路だったのだ。 勿論袋小路の行き止まりに彼は居た。白い塀にもたれ掛かるように片膝を立てて座り込み、左手で顔を覆う。そんな格好で彼は空を仰いでいるように見えた。 「……レン?」 上がった息を整えながら慎重に声をかける。しばらく遠くに市の喧騒だけが聞こえていたが、ふっと疲れたような声が空気を揺らした。 「エイル、か……何か用か?」 答えたファレンツァの声はぐったりと耳の奥に沈んでいった。生温かい風がねっとりと袋小路の三人に纏わり付く。 彼は相当に疲れた様子だったが、それでも張り詰めた空気だけはいつもと変わらない。 「い、いやぁ、用って言われても……さっき見つけたから、なんとなく」 彼独特の、吐息と殆ど区別が付かない短い笑い声に少し安心する。聞き覚えのある笑い声だった。 またしばらく沈黙が続く。ファレンツァはしばらくだるそうに顔を覆い隠したまま騒がしい音の塊を受け入れていたが、やがて指の間越しにエイルに視線を移した。 「……エイル」 「何?」 体温より少しぬるい程の湿った風が、また彼らを撫でる。 何かを無理矢理飲み下すように息を吸い、ファレンツァは気だるげにぼそりと言った。 「歌って……くれ。適当に、好きな歌を」 相変わらず、耳朶に触れるその声はじっとりと重く、力が無い。いつもの凛とした中音からかけ離れた声に今さらどきりとしながら、エイルはその言葉を繰り返した。 「……適当に、好きな歌?」 ひどくゆっくりとファレンツァが頷く。エイルはその姿を目に焼き付けるように見つめたまま、のろのろとタムを置いた。 「……言っとくけど、古代語なんてやだよ? あれ、大体どれも『ああ、今こうしなきゃ』って思ったときにすーって降りてくるやつが多いんだから」 「構わない」 答えはどこか投げやりにも聞こえた。知らないからね、と鼻でため息をつき、エイルは指を楽器の上に踊らせ始めた。 ☆ ★ ☆ 開け放った窓の向こうに少年の歌を聞いたように感じ、リエルは椅子にかけたままそちらに目をやった。賑やかな中央街からはそこそこ離れた小さな宿屋の一室。近くに人の気配は無く、ただ横のベッドに従者の若者が力なく横たわっているだけだ。半分ほど開いた目がぼんやりと天井を見つめている。ここまで肩を貸して連れて来た時に比べれば、身体の方は随分楽になったようだ。 血色を取り戻しつつある顔にかかった硬い髪を払ってやると、彼の唇が僅かに動いた。それを見逃さず、リエルはディアの口に焼き菓子を押し込む。 「こら。またそう言おうとしたね」 申し訳なさそうに見上げるディアに向かい、いつもの台詞を口にする。あの日から、もう何回この手の掛け合いがあっただろうか? 「いいんだよ……君が気にすることじゃない」 苦しげに目を伏せたディアの肩に左手をそっと乗せ、彼は囁いた。少し間を置いて身体を起こし、皿にいくつか残っていたジャムクッキーをひとつつまむ。 ベリーのジャムが妙に甘く感じられた。 舌に絡みつく刺すような甘味を振り払おうとしながら、リエルは皿の傍らに置かれたティーポットに手をかける。 「……飲むよね? って、君がその気じゃなくても飲ませるつもりだけどさ……」 何か続けようとしたが、彼は背後で従者が起き上がろうとする気配を逃さなかった。 勢い良く振り返り、手から柔らかさを捨て去りながらディアの肩を掴んでベッドに押し付ける。 「だからディア! 気にするなって言ってるだろ……こら! 僕が寝てろって言ったんだろ!?」 ディアは大分元気を取り戻したようだ。自分の手からポットをもぎ取ろうとする従者の手を振りほどきながら、リエルは胸の内で安堵の息をついていた。 |