|
道なき道を行くこと数分、少年は立ち止まって巨木を見上げた。その幹は大人十人が手を繋いでも囲みきれないほど太く、表面にはびっしりと深緑の苔が生えている。 これ、すげぇいっぱい木が集まったコロニーなんだぜ、と彼は得意げに言う。小さくついた息が森の匂いに溶けた。 「すげぇだろう……数え切れねぇくらいの木が、長い時の間に絡み合って、伸び合って……ひとつのでっかい木みたいになって生きてるんだ」 「へーぇ……」 ため息をつくように言った少年の横顔を見、エイルは彼と同じように上を見る。ごつごつとした幹が天を貫き、伸ばした幾千の枝から伸びるエメラルドグリーンの葉がきらきらと風に揺れて光の波となる。 幹にそっと手を当てると、しっとりと湿った苔の下から千年の息吹を感じられた。確かにこの群体は今も生きているのだ。 少年はそれを見ると瑠璃色の目を細めて微笑み、一行を振り返った。 「さて、と。実はな、この木ってがらんどうなんだ。で、こん中を上ってくともうエルゥはすぐそこなんだが……お前ら、行ける?」 そう言って少年が生い茂る蔦の葉をひょいと持ち上げると、人ひとりがぎりぎり通れそうな割れ目があった。エイルは顔を押し当てて覗き込んでみたが、暗くて様子が分からない。 少年に背中を押され、彼は割れ目に潜り込む。流石に内部は広く、緑の匂いがむっとする程に満ちている。続いて入ってきた瑠璃の瞳の少年に肩を叩かれ、振り返る。いつかの夜のファレンツァと同じく、闇の中で濃い青色の目だけが輝いて見える。 「こっから行くんだ。よっ、と……」 声が反響し、神秘的に響く。少し暗がりに慣れた目を凝らすと、少年が壁の瘤に手足をかけていた。 あっという間に五メートルほど登り、彼はそこから言った。 「えっとな、大体この五、六倍くらい登ることになるんだ……大丈夫かな?」 「……そりゃ、ボクには無理だよ」 登れそうな人物の顔が二、三人分浮かんだが、エイルは首を振った。少年はそれを聞くと壁にへばりついて振り向いたままの姿勢で顎に手をやり、小さく唸った。 「むぅ……仕方ねぇナ。ちょい待ち、すぐ登るわ。梯子、投げ落としてやっからサ!」 言うが早いがまた壁に取り付き、あっという間に彼は姿を消した。まるでリスか蜥蜴のようだ。 少年が登るときに踏んだものが崩れたののだろう、苔や木の皮の欠片がエイルの頭上にぱらぱらと降ってきた。 程なくして、ロープで編み上げた長い梯子がぱらりと落ちてきた。それと同時に高い声が響く。 「ちゃんと固定してあっから、安心しろよナ! 足だけ踏み外さないように気ぃつけてくれ」 「分かったー!」 真上に向かって叫び、エイルは梯子に触れる。数本のロープをひとつに編んで作られているため、細さの割に安定感がある。 後ろを振り返り、彼は割れ目から顔だけを出して仲間に告げた。 「大丈夫そうだよ。ボク、先に行ってるから」 返答を待たずに首を引っ込め、梯子に手足を掛ける。足元のロープが一瞬小さく沈み、次に土踏まずを軽く押し返してくる。 一段登るごとに独特の匂いが濃くなっていくのが分かる。土と苔と生きた木の匂いが湿った空気に溶け、肌を撫でる。しっとりとして、また少しだけざらりともしていた。 上の方から光が差し込んでいる。木の中に入ったときと同様に、少年が生い茂る蔦をどけてくれていた。 「おー、来たナ。こっから出て……あ、出てすぐんとこ気を付けろよ」 「おっ……と、うん。ここは?」 少年に手を引かれて大樹の中から脱出し、エイルは周囲を見渡した。 崖の上に居るということだろうか、眼下に先ほどまで立っていた森が広がっている。濃緑の葉が重なり合い、複雑なレース模様を織り成している。 森の向こうに遠く地平線が見え、その上に濁った空が見えた。――広い。 空がこんなに広く見えたことがあっただろうか。大地を包むようにどこまでも空が広がっている。 エイルの横顔を見て少年が微笑む。口元から零れる鋭い白が眩しい。 「もうここはエルゥの裏サ。ぐるっと回り込んだら門があるよ」 細い、少しだけ骨張った指が大きく弧を描く。 「いいか、こっちの方にぐるっと……まぁ、この木がずらって生えてるのに沿って行きゃあきっと着くサ」 快活に笑い、彼は背後に茂るぐみの木々を振り返った。軽い身のこなしでその一本に登り、赤く色づいた実をひとつ毟って口に放り込む。 目を丸くして見上げているエイルに向かって、彼は言った。 「食うかい? ちょっとばかし渋いけど!」 ☆ ★ ☆ 仕事が残ってるから、と礼も言わせず森に消えた少年の言った通り、ぐみの木の切れ目に蔓草の絡んだ簡素な門があった。 その下を潜るとすぐに目に入るものがあった。クリスタルが陽光に輝いている。 大きさは大人の背丈ほどだろうか。透明なクリスタルが石の台座の上に鎮座していた。 思わず駆け寄ると、背後から老いた男性の声がした。 「旅の方ですな」 驚いて振り向くと、長い白髪と同じく白い髭の老人が立っていた。 「ようこそ、我らが里へ。私が族長のコールレストですじゃ……水晶に用がお有りかな?」 白い眉の下から見つめてくる蒼い瞳は歳に似合わぬ光を放っている。アレグロは一瞬言葉に詰まったが、何とか頷いた。 族長は暫くその深い瞳で一行を見つめていたが、遂に手を打った。 「分かりました。まずはセシルの元に行かれると良いでしょう……あやつの家では、代々クリスタルに関する書物を管理しております故」 「なるほど……感謝する。それで、セシル殿は……」 「私が案内致しましょう」 アレグロの前に立ち、族長は歩き出した。その背筋は美しく伸ばされ、足取りはしっかりとしていた。 歩くこと一分そこそこで彼は足を止め、目の前の扉を叩いた。ここがそのセシルの家らしい。五人程度の家族が生活するには充分な大きさの家で、周囲に植えられた草花が誇らしげに太陽を見つめている。 すぐに扉が開き、家の主が姿を現した。予想に反し、彼はまだ若い男性だった。肩甲骨に届く焦げ茶の髪をゆるく束ね、肩の上から垂らしている。優しげな瞳は、やはり瑠璃色の強い光を帯びている。 「族長? どうなさいました?」 「何、セシル。また外からの客人が来てな。お前の仕事だよ」 「あぁ、そういうことでしたか」 頷き、セシルは族長の後ろに居た面々に向き直る。青年にしてはやや大きな目を柔らかく細め、彼は微笑んだ。 「初めまして……私が書庫の管理をさせて頂いております、クルムホルン家のセシルと申します」 表情同様に柔らかなテノールで言い、セシルは森を抜けた田舎町であることを忘れさせる程上品な動作で頭を下げた。 ゆっくりと顔を上げた彼の瞳の濃い青色には、どこかで見たような懐かしさがある。エイルがふっとそう思ったとき、扉が大きく開かれた。 「さぁ、どうぞ……家の地下が書庫となっています。お役に立てば幸いです」 「あ、あの、セシルさん!」 彼らを先導しようと家に入りかけたセシルは突然呼び止められ、驚いたようにエイルを振り返る。 「はい?」 「あ、あのさ……えっと、……もしかして、弟……とか、居るの?」 「え? はい。弟と……妹がひとりずつ居ますが」 「……そっか」 頷き、エイルは頬に拳を当てた。 セシルは不思議そうにそんな少年を見ていたが、気を取り直したように笑みを浮かべた。 「……では、行きましょうか」 玄関に入ってすぐに右に折れたところに石の螺旋階段があった。緩やかに下る階段を踵が打つごとに、硬く高い音が響いた。 石の階段を下り切ると、セシルは木製の扉を押し開けた。途端、インクの匂いが流れてくる。 「ここにある書物は、全て好きに閲覧して下さって構いません。何かありましたら、私までお気軽にお申し付け下さい」 そう言い、彼は入り口近くにあった椅子に腰を下ろした。その向かいの机には古びた文献と羊皮紙が積み上げられている。 羽ペンを取り、彼は文献の整理を始めたらしかった。 一行は頷き合い、書庫に散った。 ☆ ★ ☆ 有用な文献は確かに多かったかも知れない。数十分もするとただひとつだけ置かれていた多人数用の読書机の上には本の山が出来ていた。 しかし、その本の殆どは古代語で記されていた。仲間の内にそれを読める者がリエルとディアのふたりしかおらず、そのふたりを以てしても完全に解読することは出来ない。読めない語がある、というのもそうなのだが、書物自体が激しく傷んでいて読み取れないのだ。 「そういえばエイル、お前は読めないのか?」 「ん、古代語? うん、無理。耳で覚えてるから、綴りは分かんないんだ」 アレグロに問われ、歌い手の少年はあっさりと答える。古びた紙を傷めないよう慎重に指を走らせているリエルの後ろから顔を出し、彼は読めない文章をざっと目で追った。 「うっわぁ、ホントにボロボロだねぇ……ここの人に訊いてみる?」 「……その方が良いかもね」 疲れたように顔を上げ、リエルが同意する。彼は立ち上がり、片手を挙げて司書の青年を呼んだ。 やって来たセシルはずっと会話を聞いていたらしく、すぐに視線を文献に走らせた。 「なるほど……確かにボロボロですね。控えも取っていないものだし、損傷がここまで激しいと、私では……しかし、妹なら」 呟きながらセシルは襟元に手を差し入れ、服の下に隠していたらしいペンダントを取り出した。 黒く長い紐の先に下がっていたのは親指ほどの大きさの透明な石だった。セシルが両の手で握ると、石が青く輝き始めた。 目を閉じ、セシルは静かにそれを口元まで持っていく。囁くように彼は詠唱した。 「――グノーレ エクノ ウオィ エリュ オト キャブ テグ……ルーリィ」 青い光が強まり、石が彼の手の中で震えて澄んだ高い音を立てる。短い息をつき、セシルは顔を上げた。 「これで来てくれるはずなんですが……どこまで行っているのやら」 「まぁ、待てるだけ待つわよ。……あなたの妹さんなら、きっと綺麗な子なんでしょうね」 「ふふ……ありがとうございます」 金の髪の少女に向かって照れたように笑い、セシルはほんの少し首を傾げた。その拍子にペンダントの石が揺れる。 エイルはすっと手を伸ばし、その石をつまんだ。 「これ……不思議な色だよね。透明なんだけど、光が当たると色んな色が見えてさ」 「……? あぁ、そうですね。私も幼い頃は何度も光に当てて、飽きずにそれを眺めたものです」 吊り下げたランプの明かりに石を一度かざし、懐かしそうに目を細めてからセシルはそれを胸元にしまう。 と、上の方から何か物の山を崩したような音が聞こえてきた。音は次第に大きくなり、近づいてくる。 地下室に響いた音に、一瞬扉が吹き飛んだかと思う。しかし扉はきちんとついており、その前にセシルの妹と思しき人物が立っていた。 「よぉお待ちどう、兄貴! 呼んだよな?」 言い放つ彼女の容姿は、紺の短髪にセシルと同じ色の瞳。袖が無くフードの付いた服の上に、細い脚のラインが特徴的なオーバーオール―― 先ほどの森の少年と全く同じだった。 「え? い、妹!? 妹って……キミ!?」 「お……無事にたどり着けたんだな? そりゃ良かった」 驚愕するエイルに、少年改め少女はあっさりと笑顔を見せた。そんな妹と客人を交互に見つめ、セシルは瞬きを繰り返す。 「あの……妹に、お会いになったのですか?」 「あぁ、森で出会ってな。ここまで案内してもらった……妹さんには世話になった」 「そうですか。何か失礼なことをしていなければ良いのですが……」 アレグロが”妹”という言葉を言いにくそうにしていたのを、セシルは敢えて無視したらしかった。 妹に向き直り、その頭にくっついていた木の葉をつまみ上げて彼はため息をつく。 少女はそんな兄の態度が不満らしく、唇を尖らせて彼を見上げた。 「何だよ兄貴……こちとら仕事の途中だったんだぜ?」 「それは悪かった」 指の間の木の葉をひらひらと振り、セシルは一行に向き直った。その瞳が何でも仰って下さいとばかりに全員を見つめている。 遠慮がちに片手を挙げ、アルティアが口を開いた。 「あ、あの……妹さんって、この……?」 「ええ。正真正銘、私の妹です」 「で、でもボクが訊いたときには”弟と妹がいる”って……だから、てっきり弟の方がそうだったのかと……」 エイルの言葉にセシルが驚いたような表情を見せた。深く息を吸い、彼はエイルの瞳を見つめる。 「……よく兄妹だと分かりましたね。こんなに似ていないのに」 「ううん。目がさ、すっごく似てたから。なんか、こう……人とは違う感じで」 そうですか、と呟き、セシルは隣の妹を見る。こうして並んでいると、確かに兄妹としては似ていないほうだ。髪の色も目の大きさも、その表情も全く似通っていない。 しかし全体の印象を見ると、その線の細さや立っている姿勢、何より神秘的な目の輝き方が共通している。 兄の目をちらりと見返し、妹はからからと笑う。 「あっはは、そうだよなぁ。普通、初めてあたしのこと見たら男だと思うだろ」 「あ、いや、その……すまない」 アレグロに謝られ、少女は一瞬きょとんとする。しかしその目をにっと細め、悪戯っぽく彼女は言った。 「全くだよ。どっからどう見ても、あたしってばレディだろ?」 「どこの世界に鼻の頭に泥を付けたレディが居る? 階段を二段飛ばしで下りない、汚い口を利かない、髪もとかす! 淑女ならもう少し大人しくしなさい」 厳しい口調の兄に鼻の頭をハンカチでごしごしと擦られ、彼女は嫌がるように呻いた。 「冗談、冗談だよ! 淑女さんなんてまっぴらだ!」 突きつけられたハンカチの染みから顔を背け、少女は逃げるように一行に向き直る。 「……そう言や、まだ名乗ってなかったんだよナ。あたしはルーリィ。セシルの妹、ルーリィ=クルムホルンってんだ!」 「……ルーリィ」 その名をエイルは繰り返す。彼女の目の輝きを思い起こさせる、不思議な響きだ。 しばらく妹の後ろ頭を呆れた目で見ていたセシルが、思い出したように彼女の背を叩いた。 「ルーリィ」 「はいはい、分かってますよ。どうせいつもの解読だろ」 軽く言って机に積まれた文献を覗き、そのひとつを指してルーリィは兄を振り返った。彼が頷くと頷き返し、彼女はオーバーオールの胸ポケットから兄と同じペンダントを取り出した。 ルーリィの握り締めた石が薄緑の光を放つ。気を落ち着けるように長い息を吐き出し、彼女は節を付けて歌うように唱えた。と言うよりも、歌ったと言ったほうが適切かも知れない。 「ドゥヌーオラ ヌーント ドナ イド イム チウト リーゥ イ、フラウド エート ウォース エゼール オス」 片手で石を握り、もう片方の手を背後に回して彼女はその場でくるりと回った。少年だと思っていたときは高い声だと感じたが、少女の声だと知ると低いほうだと思える。 セシルが彼女を”呼んだ”時と同様に、石が震えて鳴り出した。 |