第2話〜導きの詩



「な……おいおいおい! お前、死にかけの世界を前にして動かないって言うのか!?」
「うん」

 笑みさえ浮かべて、エイルは答えた。
 アレグロはそんな少年の肩を掴み、大きく揺さぶる。

「じゃあ、お前はこのまま世界と一緒に死んでもいいのか!?」
「いいよ」

 相変わらず、彼は微笑んでいる。なんの汚れも無い、純真な笑み。その表情は、答えにあまりにもそぐわない。
「いいって、おい……あんた、魚の目玉足りてる?」

 さすがに呆れたような表情を浮かべ、クレハが問うた。頬の揚羽蝶が、小さく羽ばたく。


「……目玉に限る必要はあるのか?」
「クレハの故郷ではそーなのかもよー?」

 ひそひそと、騎士と詩人が囁き合う。その様子に、クレハは小さく首を傾げた。

「…………あれ、俺の覚え違いかな。肝っ玉、尻子玉……?」
「魚に尻子玉はない」


 冷たく突っ込み、アレグロはエイルの肩を掴む手に力を入れた。

「うどん玉は置いといて、さっきの話だ」
「うどんー?」
「……。そこは放っておいてくれ。もう一度聞くぞ。お前は世界と一緒に滅んでも平気なのか?」
「うん。平気」

 彼の答えは変わらなかった。
 エイルは少年の笑みを浮かべたまま、さらりと続ける。

「ボクねぇ、あんまり未来のことって考えてないんだ。今歌いたいなー、とか、今卵焼き食べたいなー、とかは思うけど……明日ああしたい、とか来週あれしよう、とか考えたことないんだよね。だから、明日世界と心中することになっても平気。後悔しないよ」

 ……とても、十五の少年の言葉とは思えない。全く生に執着していないのだ。――とてつもない大物なのか、あるいはただのアホか。
 アレグロは夕刻エイルが歌っていた訳の分からない歌を思い出し、後者か……と浅くため息をついた。

「ん? どしたのアレグロー?」
「いや……夕飯前にお前が歌っていたアホな歌を思い出して……な」
「レトリ〜バ〜、レッドリバ〜、レッドマシュマ〜ロ〜……」
「歌うな!!」

 嬉しそうに”アホな歌”を歌いだした彼の頭に、アレグロは軽く肘を落とした。


 ☆ ★ ☆


 真夜中の世界は、蒼黒に支配されている。
 漆黒ではない。あくまで青みを孕んだ、優しい冷たさ。闇色をした髪も服も、その空気の中に溶け込んでそよいでいる。
 安息の闇の中、彼はひとりリュートを鳴らしていた。

――エミト スギン セモク イ ツノド ペーレス ドナ――

 開いた唇から、静かに声が流れる。夜の空気は彼の声を受け止め、包み込み、ひとつになる。


「…………ねぇ」

 不意に現れた気配。気配の主は、彼の肩をぽんぽんと叩いて言った。

「どしたの、こんな夜中に?」

 彼は歌を止め、ふっと息をついた。その息さえも、闇は優しくかき消した。

「ねぇ、どしたのー?」
「……いや。……どうでもいいだろう」
「…………つれないなぁ。こないだ会ったじゃない?」

 少年の顔は見えない。しかし、声の調子から彼が唇を尖らせる様子は容易に想像できた。

「……よく分かったな」
「分かるよ。声がおんなじだもん。……ね? 詩人クン?」

 そう言うと、少年は彼の隣に腰を下ろした。

「何故こんな夜中に出歩いている? 子供はとっくに寝る時間だ」
「とっくに寝たよ、一回はね。でも、目が覚めちゃったから宿を抜け出して散歩してたの。しばらく行ったら、歌が聞こえてきたからさ」
「……耳がいいんだな。…………にしても……散歩、か。随分な遠出だな」

 笑うような吐息をつく。実際、ここは宿から――と言うより、町から随分離れている。
 彼は少年の方をちら、と見、次に夜空を見上げた。深い紺色の天の海には、白銀の星が泡のように浮かんで瞬いている。黄金色の三日月は、さしずめ大海原を漂う小舟といったところか。
 蒼黒の海は静かに波打ち、細かな泡を浮かべては弾けさせ、ただ一艘その上を行く舟を優しく揺らめかせる。

「…………ねぇ、キミさ……名前、なんて言うの?」

 思い出したように、エイルが口を開く。

「……名前? ……何故、僕が名乗る必要がある?」
「だって、名前がないと呼びにくいじゃない。どうやって声をかけたらいいのか悩まない?」
「呼ばれることは…………そうだな、あるかも知れない」

 月を眺めたまま、彼は答えた。月明かりが、端正な顔を淡く照らし出している。

「だが……今は名乗らない」
「な……何でぇ?」
「他人に詮索されるのは嫌いだ。何も知られたくはない」
「……そう。じゃあ、ボクも聞かない。……でも! もしもっかい会ったら、その時は絶対名前聞くからね」

 少年特有のすねたような調子で、エイルはそう言った。

「もう一回、か……そうだな。もしも、君がクリスタルの神殿へ向かって進むなら……あり得なくもないか」
「ふーん。クリスタル……ねぇ。……キミは、一体何なの? お偉いさんの戦士じゃないんでしょ?」
「…………」

 彼は、何も言わなかった。何も言わず、ただ遠く揺らめく金色の光を見つめていた。
 指が小さく動く。リュートが静かなメロディを奏で始めた。繊細で、どこか物悲しい響き。

「……綺麗…………いいリュートだね、それ」

 無視された訳ではない。彼が小さく笑ったのが、エイルにははっきりと分かった。

「……もう宿に帰れ。夜も更けた」

 彼の言葉に、エイルはうーんと喉を鳴らすように唸った。

「……?」
「えっとさ、そのぉ。ボク、音だけを頼りにここまで来たんだよねぇ」
「……だから?」

 詩人の青年の答えは素っ気無い。

「だからぁ、……帰り道、分かんないの!」

「…………」

 リュートを弾く手さえ止めて、彼は沈黙した。間違いない。呆れている。
 長い長い沈黙の後、彼はぴんと弦を弾いた。さっきまでの切なくなるような調べではない。厳しく優しく、教え諭すような旋律。

――ダオル ウォンク、ウオィ オト ダオル エフト ウォース イ――

 木の葉が風にそよぐ。夜風に吹き飛ばされそうなほど微かな声だが、その輪郭ははっきりと色を持っている。
 彼の歌はまっすぐに伸び、細く遠く進んでいく。

 やがて歌い終えた彼は、ぽんとエイルの肩を叩いた。

「行け。今の歌は導きの歌だ。必ず君の道しるべとなるだろう」

 そう言うと、彼はリュートを背負って立ち上がり――闇の中に溶けるように去っていった。
 ――いつの間にか、風は止んでいた。

「え? 導き……って、何? ねぇ、ちょっと! 置いてかないでよーっ!」

 エイルが叫んだとき。

 風がなくなったにも関わらず、さやさやと足元の草がそよいだ。

「…………導きの、歌……?」

 足首ほどの丈の草がそよぐ方向に向け、足を進める。さながら風の道のように、足元の草だけがそよいでいた。


 ☆ ★ ☆


 周りが揺らめいている。海の底に居るようだ。だが、エイルを取り巻いているのは波打つ海水ではなかった。

 歌だ。

 何故歌だと分かったのかは分からない。ただ、その揺らめきは真夜中の青年の歌のそれととても似ていた。
 歌はさざめき、煌き、ゆらゆらとエイルに語りかける。

――ウォン エマク トラトス ウオィ タート エミト エート――

 歌声は、確かにあの詩人の声だった。

 ――旅立てと、彼はそう言っている。クリスタルを目指せと。それは抗いがたい響きを持って、エイルの中に流れてくる。
 何で? 何で僕が行く必要があるの?

 エイルの問いに答えることなく、歌は深く遠く広がりながら漂っていた。遠い古代を思わせる詞は、ただ厳粛に響いている。

 その響きに包まれているうち、エイルは何かを悟った。それが何なのかはよく分からない。何か心の奥深く――芯のようなところに、歌が沁みこんでいくのが分かる。
 じわりじわりと、歌が入ってくる。それは決して厭な感覚ではなかった。むしろ、穏やかな海原に漂うような心地よささえ感じる。
 そっか。どうしても、ボクは行かなきゃダメなんだ――エイルは目を閉じると、素直に大きく頷いた。

 分かったよ。……でも、何でだろうね? キミの歌が、ボクを動かしてる。ボクに拒否権さえくれないで。ねぇ、それは何の歌?
 ――そう思った瞬間、世界に光が射した。


 ☆ ★ ☆


 海底の感覚が、まだ残っていた。しかし、ここはその世界ではない。
 夢から抜け出し、朝の世界に来ている――寝ぼけた頭でそれを理解するのには、30秒ほどかかった。

「……あそっか…………寝てたんだっけ」
「寝てたぞ。そりゃもう見てて気持ちいいくらいにな」

 2秒と待たずに声が返ってくる。その反応の速さと呆れたような口調は考えるまでも無い。アレグロだ。
 見れば、彼はとっくに朱橙の服に身を包んで窓を開けている。吹き込む風に、カーテンが打ち寄せる波のようになびいた。

「で? 昨日の意見はそのまま今日の意見なのか?」

 朝の風を受けながら振り返り、アレグロが問うた。その声には、半ば諦めが入っている。
 エイルは大きく風を吸い込むと、猫のそれのように長い伸びをしてから答えた。

「んーとねー。そのまんまじゃあないかな。どうしても行けって言われちゃってね」
「……誰にだ?」
「え? それは秘密ー」

 アレグロの当然ともいえる問いを、エイルは笑顔で流し去った。

「でも、嬉しいでしょ? ボクについて来てもらえてさ」
「…………どう答えて欲しいんだ?」
「嬉しいって答えて欲しい!」
「分かった。嬉しい。すごく」

 にこにこと答えたエイルに、アレグロは棒読みに徹して答えた。真顔のように見える表情は、呆れを孕んだまま固まっていた。


 ☆ ★ ☆


「へぇ、じゃあやっぱり一緒に来るのか。分かった、宜しくな」

 言いながら、クレハは右手を差し出した。笑った顔は、戦いに生きる青年のそれとは思えないほど澄んで美しい。笑顔そのものが光を放っているかのようだ。
 その隣では、鉄鎧を身に付けたアレグロが疲れたような笑みを浮かべて立っている。――何に疲れているのかは言及しないことにする。  エイルはクレハの手をぎゅっと握り、太陽の笑みで返した。

「うん。こっちこそよろしく!」

 握手している2人の笑顔にはどこにも影が見つからない。相手を信頼し切った、最上級の笑顔だ。そんな彼らの横で、既に諦めたような空気を漂わせている騎士ひとり。
 彼は、2人を見ながら心中で呟いた。

 ――俺ひとりで、こいつらに突っ込めと…………?

 ガクンと首をうなだれ、彼は深いため息をついた。


「どしたのー? ホラ、行くよー?」

 詩人の声にもうひとつついたため息で答え、アレグロは大きな荷物をその身に背負い直した。
 朝の風が町を吹き抜け、頬を撫でる。頬を撫でた風は、髪をさやりと鳴らして通り過ぎた。


 朝は、もう大陸を優しく覆い尽くしている。


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