第5話〜春宵の前奏曲



 大陸を二分する山脈は険しく高く、いつの世も旅するものを苦しめてきた。ここにも、苦しめられる――いや、必要以上に苦しむ旅人が……。

「も〜お、やだっ! 上り坂上り坂上り坂っ! 一体いつまで登んなきゃダメなのさっ! 靴とか服とかデロデロになるし! ねーねー、もうあとどんくらいっ!?」

 顔を紅潮させてエイルは一気にまくし立てた。その姿は、さながら――

「……幼児か、お前は」
「なにそれアレグロ〜っ! って言うか〜、一体何日こうしてると思ってるのさ!? んも〜、手持ちの食糧残ってんだろうねっ!?」

 エイルの言う通り。彼らは、あれから数日この山を彷徨っていた。登っているのは確かなのだが、進んでいるかと言うと……本人たちにも、よく分からない。
 何せ道がないのだ。いや、始めは確かに足元に道があった。が、いつの間にかそれは泥と藪に覆われ――

「完全に迷ったな、こりゃあ……何日かかるもんか」
「今さらそんな普通に分かること言わなくていいよっ! もーっ!!」

 ごくごく呑気な調子で呟いたクレハに向かい、エイルは唾を吐き飛ばす勢いで怒鳴った。
 彼のひどくカリカリした様子に、アレグロがぐっと眉をひそめた。その炎の瞳には、苛立ちがはっきりと見て取れる。

「も、もうケンカしないでよぉ……みんな疲れてるんだからさぁ…………」

 目に涙さえ溜め、アルティアが両手を顔の前に出して壁を作る。ふるふると今にも泣き出しそうな顔に、二人はため息をつきながらも一応気分を鎮める素振りを見せた。
 ……ただし、エイルは誰にも聞こえないようこっそりとこう呟いていた。

「…………山が悪いんだ……」

 山越えの理由うんぬんよりも、まず山が憎い少年であった。


 ☆ ★ ☆


 時刻はすでに夕刻。すでに「疲れた」を連呼する元気もなくなったといった調子でぐったりと歩いていたエイルが、ぴくりと身体を震わせた……ような気がする。
 次の瞬間、彼はがばりと顔を上げて口を開いた。

「……パン…………」
「……は?」
「パン! 焼いてるっ! この近くっ!!」

 空色の瞳をぎらぎらと輝かせ、一種空恐ろしささえ感じさせる形相でエイルは叫んだ。
 そんな匂いするかぁ、と首を傾げながら、クレハは風上に顔を向けた。

「……あ、そう言われれば。うん、焼いてる焼いてる」
「でしょっ!? あと、なんか菜っ葉と、干し肉と〜……」

 飢えかけた子犬のようにくんくんとやっている少年に、クレハは感嘆の目を向けた。

「お前……鼻、いいんだな」
「いや、単に疲れて壊れかけてるだけだろう…………」

 クレハの肩をぽんと叩き、次にアレグロは飛び出しそうになる自分の目玉を必死で瞼に押しとどめなければならなかった――もちろん、それは単なる感覚ではあるが――。

「おいこら待てエイルっ! 馬鹿め、団体行動を乱すな、つーか何匂いに釣られてやがるこのアホ歌歌いっ!!」

 ふらふらと歩いていく少年に怒鳴り、彼は慌ててその後を追った。


 ぱちぱち、乾いた音を立てて小枝が弾ける。丁寧に組み上げられた枝の上で、熱を持った朱色の光がひらりひらりと踊っている。
 焚き火に炙られるパンが懐かしいような匂いを撒き散らし、こちらの空きっ腹を泣かせる隙をうかがっているのかとさえ勘ぐってしまう。
 ごくりと生唾を飲み込みながらも、アレグロは自分の目的をなんとか見失わなかった。
 すっと息を吸い込み、こちらに背中を向けて座り込んでいる少年に向かって――

「くぉらこの大馬鹿アホ歌メーカー改悪版っ! てめぇは何食いもんに釣られてのこのこ抜け出してるんだ! さっさと戻ってこんか……」

 それ以上怒鳴ることはできなかった。
 ……畜生、故郷の匂いめが。
 空腹を恨みながら、彼はエイルに歩み寄った。

「……おいアホ歌歌い……」
「なーにー? あ、食べる〜?」

 大きく齧った跡のあるサンドウィッチを差し出し、にへらぁっと少年は振り返った。
 パン自体はやや小ぶりなクロワッサン。小ぶりなのだが表面は焦げ茶に品良く光り、独特のパイのような質感を充分に見せている。エイルの齧り取った断面がほろほろと淡い蜂蜜色に崩れているのがまた憎い。横に半分に切ってあったらしく、パンの中から薄黄緑の柔らかなレタスと柘榴石の如く輝くトマトが覗いている。
 思わず受け取りかけ、アレグロははっと我に返った。違う、そうじゃない!

「そうじゃねぇ! さっさと戻ってこいって……」
「でも、どうせお腹空いてるんでしょー?」
「うっ……」

 否定できないのが、なぜかとてつもなく悔しかった。目の前でうまそうにサンドウィッチを腹に収めている少年がこれほど憎いと思えるとは。

「大丈夫だよー、多分一人前の量じゃすまない勢いだからさ」
「勢い……?」

 アレグロが片目を細めると、エイルは頬張ったサンドウィッチをもぐもぐとやりながら焚き火の向こうを指差した。
 人影が見える。いや、こんな料理をこのアホ歌歌いが作る訳が……それ以前に材料なんか持っているわけがないのだから、誰か居なければおかしいのだが。
 作業をひと段落させたらしいその影の主は立ち上がり、トレーを持ってこちらに向かってきた。

 色味のある炎の光を反射して、その茶色の髪が美しく輝く。黄金色の瞳は、なにか興奮が残っているようにきらきらとしている。
 女性の年齢はよく分からないが、見た感じ二十代だろう。アレグロとほぼ同じ年の頃ではないだろうか。
 彼女は草の上にトレーを置き、にっこりと微笑んだ。そのトレーに載せられた皿には、エイルの持っているような料理が積みあがっている。その盛り付け方もまた、器用でなおかつ食欲をそそってくるものだ。

「はい、追加です。……そちらはお連れの方ですか?」
「うん、仲間〜」

 エイルが頷くと、その女性はさっき以上の優しい笑顔を見せた。

「そうでしたか。……あ、すみません。私、この辺りの宿に勤めているトウシャと申します。少し食堂のメニューを考えたくて、ここまで下りて来たので……よろしければ、召し上がってくださいね」
「そゆことー。遠慮はいらないみたいだよ?」

 ……一瞬の間を置き、三人分の声が重なった。

「えっ、この近くに宿があったんですか!?」
「ちょっ、そうは言っても結構深いぞここ! わざわざその為だけにっ!?」
「お姉さん、えらく立派な毛皮着てない!?」

 …………不協和音だった。
 アルティアは宿の存在に驚き、アレグロは女性の行動に驚く。それは順当な驚きと言えるだろう。唯一クレハの突っ込んだところは、今この場においてピンポイントかは分かり辛いが――
 トウシャは別に慌てる様子もなく、順を追って笑いながら答えた。

「はい、この先へ登るとウォルギフと呼ばれる山間の自治領がありまして、そこの宿が私の仕事場です。メニューの方は、こんな何も無いところですからせめてもとの気持ちで一生懸命研究に励んでおります。……毛皮の件は、ちょっとお恥ずかしいことなんですけどね、」

 苦笑し、トウシャはさらりと言った。

「これ、私の戦利品なんですよ。しばらく前に熊が村に迷い込んできたことがあったんですけど、その子が何だか興奮していて……私、なだめようとしたんですけど」
「…………まさか、ぶっ殺した、と……?」
「……気が付いたら、動かなくなっちゃってたんですよねぇ」

 決まり悪そうに、彼女は苦笑した。ごく普通の村の女性が浮かべる、ごく普通の柔らかな美しい表情……なのだが、それが台詞とかみ合うように思えない。
 固まっている男四人に向け、トウシャはフォローするように続けた。

「ええと、大丈夫ですよ。あの後ちゃんとお葬式も出しましたから、化けて出たりはしないと思います。きっとあの子も、お腹が空いていただけですから」
「それだけで死ななきゃいけないって、なんかすごく悲しいんですけど……」
「……あの子も、何も死んでしまうことはなかったんです。ただ、いつの間にか…………」

 アルティアの遠慮がちなツッコミに、目を伏せて息をつくトウシャ。その琥珀色の瞳が憂いに揺れる様は、飾り気がないながらも神秘性すら感じさせる。
 ……しかし、その熊の死因に関しては誰も突っ込もうという気すら起こさなかったが。

「あれ、アレグロが突っ込まないなんて珍しいねー。まぁ、そんな湿っぽい話は置いといて一緒に食べよ? どうせ空腹のせいで突っ込めないんだこのアホ歌歌いがとか考えてたでしょ?」
「……ビンゴ」

 深いため息をついてから、アレグロはエイルの差し出すサンドウィッチを受け取った。
 口の中でほろりとほどけるパンの柔らかな層。ゆるみそうになる涙腺を抑えながら、彼は久々のまともな食事を満足いくまで胃に収めることにした。


 ☆ ★ ☆


 あれから数十分。それこそ皿の上に山のように積みあがっていた料理は、綺麗に無くなっていた。山に振り回されていた食べ盛りの若者4人がかりだったとは言え、あの山を崩すのは並大抵のことではない。
 その綺麗な白い肌を見せている皿を満足げに見回し、トウシャはそれらを丁寧に重ねてバスケットに詰め込んだ。

「はぁ……久々に美味い物食ったな。ありがとうな、トウシャさん」
「いいえ。私も、これでメニューに自信が持てましたから……こちらこそ、ありがとうございます」

 赤々と燃える焚き火に照らされ、クレハとトウシャ、二人の最上の笑顔がさらに輝く。その横でぐでんと横になっているエイルを小突いて無理矢理起き上がらせ、アレグロは口を開いた。

「ええと、トウシャ。さっき、宿に勤めていると言ったな。俺たちを、そこまで連れて行ってくれないか? ……恥ずかしい話だが、道を失ってな」
「はい、構いませんよ。ここからなら、私の足で二十分もあれば行けますから」

 にっこりと笑ったまま、彼女は荷物を背負って立ち上がった。四人もそれに続いて立ち上がる。
 ざんざんと下草の踏まれる音がいくつも重なり、遠ざかっていく。
 後には、きっちりと始末された焚き火の跡だけが残った。その上で、ひとつ星が瞬く。

 沈みきった太陽に代わり、月が濁った空に光を与える。太陽の輝きを受け止めて自らの輝きに変えるそれは、純粋な淡い金色をほんの少しくすませていた。


←4 →6


inserted by FC2 system